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アタチュルクの描いた国 トルコ  グランドバザールと最後の晩餐へ

2013-06-21 Fri : 旅行こと 

6.png
トルコ語で“Kapali Carsi(カパル・チャルシュ)「屋内市場」という意味をもつグランドバザール。1288 - バザール1
さかのぼることオスマントルコ帝国時代の1461年から続く歴史的建造物で、
1289 - バザール2
時代と共に増築が繰り返されたため、奥へ奥へと果てしなく続く通りはまるで迷路のよう。
64のストリート、22もある出入り口に加え、3600を超える店舗を有している、
1293 -バザール4
世界最古で最大規模のデパートの一つとも言われます。
グランドバザールの店員は外国人旅行者の姿を見て、国を当てるのが商売柄とても上手で、そしてその人の言語で挨拶や呼び込みをしてきます。
  
1291 バザール4 (2)

日本人だっと思っら、「こんにちは」「どうぞ、見るだけはただよ。」に始まり以前なら「バザールでござーる。」「アメ横より安いよ。」でしたねなんていうことまで聞こえてきたらしいですよ。1292 -バザール5 (2)
私達のツアーはこの巨大なモールを見るのに組まれている時間は

たったの1時間半でした。行きました帰りましたの時間だけでしたよ。トホホでしたね。
1290 -バザール3

次は晩さんの日本食です。  
1304 -晩さん3 

うどんがおいしくない【うどんや】らしいですよ!!!

レストランの名前は「優曇也(うどんや)」です。1295 -晩さん1

場所は町の中心タクシム広場からも徒歩3分ほど、「ポイント-ホテル」の内の一階にあります。お寿司のカウンターやテーブル席が並ぶ店内は、いつも活気づいているそうですよ。1305 -晩さん4

メニューは心温まる家庭料理が豊富。
その店名の通り、麺はお店の手打ちとのこと。1297 -晩さん2 (2)
人気商品は海鮮ちらしや天ぷら、鶏肉で作った餃子やタコ焼きなどで、トルコ料理に疲れた胃に優しく響きます!

1301 -晩さん5
トルコ料理【すべての料理が羊くさくて】は胃が反発してどうしても食べられなかった、今までの日々を忘れたかのように、自然とスーと胃に収まった最後の晩さんでしたね。
1302 -晩さん666
後は寝るだけです。

おやすみなさい!!!後一日で日本です!!!


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アタチュルクの描いた国 トルコ  ボスポラス海峡クルーズ

2013-06-08 Sat : 旅行こと 

 ルックJTB専用チャーター船でボスボラス海峡クルーズ

クルーズはエミノニュ3番桟橋から出航します。1224 桟橋
ボスポラス海峡の桟橋へと向かうこの付近には、いつも人と車がいっぱい混雑している、そして向こうに金閣湾越しの新市街が見え隠れして、
そばにはオリエント急行の終点、シルケジ駅がある。1228 - クルー1
 
観光船は1時間半程度のクルージングで

2ボスポラス大橋まで行って引き返すコースです

 
 1231 - クルー2

まずはドルマバフチェ・ジャーミィを通過します

ドルマバフチェ宮殿も通過... ここはトプカプ宮殿のあとのスルタンの居城として使われています 1251 -クルー8

海の中に建つレストラン1252 - クルー9 (2)

ねっ岸から離れているでしょう!!!

1237 - クルー3 1239 -クルー4
続いて見えてきたチュラン・パレス。ここはスルタンの夏の離宮として建てられました。今はチュラーン・パレス・ケンピンスキーという最高級ホテルになっています1245 -クルー5 (2)
オルタキョイ・ジャミィとボスポラス大橋。オルタキョイ・ジャミイです。バロック様式の真っ白なモスク。1854年にスルタン・アブドゥル・メジト1世によって建てられました。

改修中なのでしょうか、フェンスで囲われています。

第一

第一ボスポラス大橋をくぐります。イギリスとフランスによって海峡にはじめてかけられた橋です。1973年完成した.ヨーロッパ側のオルタコイとアジア側のべイレルベイを結び ボスポラス海峡をまたぐ吊橋である。 幅 39 メートル、 全長 1,510 メートル 水面から橋桁までの間隔は64 メートルである。1260 -クルー11
海峡一狭くて事故の多いと言われている所に、ヤルと呼ばれる避暑地の別荘地があります。ヤルとは「水辺」を意味し、主にボスフォラス海峡沿岸の古い別荘建築【とても豪華に見えます】を指しています。1255 - クルー10

クレリ海軍学校。
1264 -クルー12 
アタチュルクもかつてここで学びました。

トルコには徴兵制度があって国民男子全員に15ヶ月間の兵役義務があるそうです。
1266 クルー13

原則徴兵拒否はみとめられず、兵役についたかついてないかで就職にも大きく影響してくるとのこと。

1276 -クルー14

第2ボスポラス大橋ですアジアとヨーロッパを結ぶ橋、第二ボスポラス大橋。IHI、三菱重工業、日本鋼管、伊藤忠商事と現地の企業の協力により1988年に建設されました。全長1,510メートル、幅39メートルの、車両専用(8車線)の吊り橋です。第二
日本とトルコの友好のシンボル」として知られています。 この橋には、日本人とトルコ人の作業員が見事な連携により、予定よりも半年も早く完成したというエピソードがあります。トルコ人の勤勉さや、日本人とトルコ人のチームワークの良さを象徴しています。現在は㈱IHIが日本政府のODAで耐震補強工事を行っています。
1278 クルー15

なお、同じ年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋にあたります。

現在、このボスポラス海峡には

3のトンネルとして大成建設グループが

全長13.7Kmの海底トンネルを建設中です。

1277 -クルー16

【ベイレルベイ宮殿】スルタンの夏の離宮、迎賓館として使用されました。
ヨーロッパの宮殿をお手本にして

 1865年に建てられた大理石を多用した宮殿。

ここで船はターンして戻ります

1280 -クルー17   

旧市街に戻ってきまた。さっきまで行っていたトプカプ宮殿が霞んでいます。

戻って来た今は、ドルマバフチェ・ジャーミィに明かりが点っています。1286 - クルー18

ちなみにこのクルーズはソフトドリンク飲み放題でした。
これからグランドバザールへ買い物へ向かいます。

行ってきまーす!!!

アタチュルクの描いた国 トルコ  トプカプ宮殿の博物館

2013-05-30 Thu : 旅行こと 
        1000配置図

 
博物館5 トプカプ宮殿博物館はイスタンブール最大の名所のひとつで、毎年、世界中から200万人以上の見学者が訪れている。トプカプ宮殿の造営は、コンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼしたスルタン、メフメット2 世によって1465 年に始まったとされる

1465年から1478年にかけてメフメットII世により建造され、1856年のドルマバフチェ宮殿への移転までの約370年間スルタンの居城でした。スルタン制度が廃止され、1923年にオスマン帝国が消滅し、トルコが共和国になってからは、ここは博物館として利用されているそうです

ゆりかご

金のゆりかご

トプカプ宮殿の見どころは、なんといっても宝物館にある、ため息もつかんばかりの金銀財宝。
玉座
86カラットの巨大ダイヤが輝かしい「スプーン職人のダイヤモンド」、柄の部分に巨大なエメラルドが3つあしらわれた「トプカプの短刀」、数千個のダイヤがちりばめられた「黄金の燭台」などなど、挙げて行くとキリがないけれど、とにかくかのオスマントルコ帝国がその栄華を極めた象徴ともいうべき宝物がザクザクあります。
ダイヤ

 ガイドブックから拝借です。
なぜって、撮影禁止になっているからなのです。

 86カラットのスプーン屋のダイヤモンドや

 短剣
トプカプの短剣などなど、沢山の宝物が展示されています。

世界帝国に君臨したスルタン
ハミト1世

アブデュル・ハミト1 世像 1774-89

礼装用兜 16世紀
水差し

輝くオスマン王朝の栄華

ターバン飾り 18世紀

水晶製薔薇水入れ 16 世紀後半

博物館に展示してあった鎧兜について

山田寅次郎が贈呈と記してあったので調べてみました

 

山田寅次郎にまつわる歴史


寅次郎 
1887
小松宮彰仁親王殿下および同妃殿下が皇族として初めてトルコを訪問
1889714
海軍少将オスマンパシャ率いるトルコ皇帝特派使節団609名を乗せた木造フリゲ-ト艦エルトゥールル号がイスタンブ-ル港を出航
189065
エルトゥールル号が横浜港に到着1890年9月16日エルトゥールル号が横浜港を出航


熊野灘で暴風雨にあい、和歌山県串本町大島樫野崎灯台下に点在する岩礁に激突、沈没。生存者わずか69名。

189010
天皇の命により軍艦「金剛」「比叡」が生存者69名を乗せトルコへ

1892

山田寅次郎が弔慰金を携え民間使節としてトルコへ渡航、当時24

兜
トルコの観光名所として名高いイスタンブールのトプカプ宮殿には、山田寅次郎が贈った日本の鎧と兜、陣太刀が陳列されています。

 

 山田寅次郎は沼田藩江戸詰め家老中村雄左衛門の次男として、土岐家上屋敷に生まれました。そして、明治23年24歳の時、当時としてははるかに遠い異教徒の国と関わりを持つことになったのです。

寅次郎の実家、中村家に伝わる戦国時代の甲冑師明珍の鎧兜と太刀を献上しました。

 



1206 -調度品
謁見の間にあった調度品【玉座や絨毯や暖炉等】を見て

1204 -図書館
アフメット3世の図書館の前を通って

1209遺跡 - コピー
ビザンチン時代の遺跡
も眺めて
1214 -皇帝の門11212 -皇帝の門
皇帝の門を通りこれでトプカプ宮殿にお別れです

1213 給水泉 (2) 
アフメット3世の給水泉のそばの駐車場へこれからクルーズに行きます。

        

 

アタチュルクの描いた国 トルコ  トプカプ宮殿のハーレム

2013-05-22 Wed : 旅行こと 

黄色の○わくの正義の塔の下がハーレムの入り口で   
黄色の↑が出口です
ハーレム俯瞰図1

まずはハーレムの歴史を覚えて
から見学いたしましょう

1ハーレム

日本の年代では鎌倉末期から大正までです。

歴代君主オスマン朝 系図

 1.オスマン1世(1299 - 1326年)

 2.オルハン(1326 - 1359年)

 3.ムラト1世(1359 - 1389年)

 4.バヤズィト1世(1389 - 1402年)

 5.メフメト1世(1403 - 1421年)

 6.ムラト2世(1421 - 1451年)

 7.メフメト2世(1451 - 1481年)

 8.バヤズィト2世(1481 - 1512年)

 9.セリム1世(1512 - 1520年)

 10.スレイマン1世(1520 - 1566年)

 11.セリム2世(1566 - 1574年)

 12.ムラト3世(1574 - 1595年)

 13.メフメト3世(1595 - 1603年)

 14.アフメト1世(1603 - 1617年)

 15.ムスタファ1世(1617 - 1618年、1622 - 1623年)

 16.オスマン2世(1618 - 1622年)

 17.ムラト4世(1623 - 1640年)

 18.イブラヒム(1640 - 1648年)

 19.メフメト4世(1648 - 1687年)

 20.スレイマン2世(1687 - 1691年)

 21.アフメト2世(1691 - 1695年)

 22.ムスタファ2世(1695 - 1703年)

 23.アフメト3世(1703 - 1730年)

 24.マフムト1世(1730 - 1754年)

 25.オスマン3世(1754 - 1757年)

 26.ムスタファ3世(1757 - 1774年)

 27.アブデュルハミト1世(1774 - 1789年)

 28.セリム3世(1789 - 1807年)

 29.ムスタファ4世(1807 - 1808年)

 30.マフムト2世(1808 - 1839年)

 31.アブデュルメジト1世(1839 - 1861年)

 32.アブデュルアズィズ(1861 - 1876年)

 33.ムラト5世(1876年)

 34.アブデュルハミト2世(1876 - 1909年)

 35.メフメト5世(1909 - 1918年)

 36.メフメト6世(1918 - 1922年)

 37.アブデュルメジト2世(カリフ:1922 - 1924年)1208 -教会3
ハーレムの建物は六層からなり、三百の部屋、通路、中庭、階段が入り組んで迷路をなしているが、私達が見学できるのは、そのうちおよそ13室でした。
1147 - ハーレム2
 

ハーレムの女達が、世界中から略奪されたり売られてきたということはよく知られていると思うのですが、そこには宦官という者たちもいた。スルタン以外、普通の男たちの出入りは厳禁であったハーレムを取り仕切っていたのは、皇太后、そして黒人宦官長(クズラール・アーシ)であったのです。1ハーレム図


②イズニックタイルの左右対称の装飾が壁一面に1151 - タイル
愛妾達は、24時間一日中宦官たちに監視されていました。黒人 1157 - 黒人宦官

その宦官達の住んでいた部屋 1156 宦官達の部屋

④ここを潜るともう2度と出られません1159 -ここから

ここからが、スルタンの寵愛を受けた女性達の居住区が始まります

道も小石で綺麗に文様に敷きつめています236小石 - コピー

この通路はタイルではなく風景画が描かれています1161 -風景画
⑤黄金の道と母皇后の中庭1171 - 中庭

右の2階は、スルタンの王子を出産した女性達の部屋1162愛妾の中道
愛妾達の中庭から正義の塔が望める 
 ⑦ワーリデスルタン(皇太后)の広間 1170 - 母の部屋 (2) 
螺鈿の扉の模様
1166 - 螺鈿
皇太后
の部屋は、ハーレムの中央で、スルタンと女性達の部屋の間に位置していて、両方を見据えていたそうです。1164 - 母の部屋1

⑨スルタン(オスマントルコ帝国皇帝)の広間

          現在工事中でしたので見られませんでした。

 赤い→の所の部屋です


1190 -工事中 (2)

⑩愛妾達がスルタンの寝室に向かう前の控えの間1177 - 全室 (2)1180 - 全室1 (2)239 - 天井

⑪ムラト3世の広間
1186 -ムラト 1184 ムラト3
スルタンの天蓋
1188 ムラト2

1183 ムラト4 (2)
皇子と愛妾の部屋1193 子供2 1194 子供3 1195 -子供4 

ステンドグラスで太陽光を取り入れる1192 -子供1

「黄金の鳥かご」と言われている皇子幽閉所跡 1199 -鳥小屋 (2)
今は白いシートで覆われている

赤い→の所です


1198 -子供室窓 

外から見た皇子達の部屋の窓とガラス

1197 -テラス

⑬ポスポラス海狭が望めるテラス1200 -出口 

⑭出口です。
1201 -出口の鏡 

この金メッキの鏡だけが愛妾達の悲喜交交を知っているのですね!!!

なんだかやっとこさ塀の外へ出られた感じです。外の空気がおいしいかったです

こういうところに一生監禁?は

やっぱりイヤです!!!

アタチュルクの描いた国 トルコ ⑳ トプカプ宮殿にて

2013-05-18 Sat : 旅行こと 
本日の気温は20度℃こんなに暑い冬を経験したのは初めてです。一昨日は雪景色だったのに。何しろ今

暑くて、あついんですから!!!嘘のような本当の話ですからね

215 -入り口2 
この城壁のような門を潜ると、今日の半日観光が始まります。あの禁断のハーレムの館がこの目で観られる と思うと胸がワクワクしてきます。この門から歩いて10分位で、やっと正門に辿り着きました。約3キロmはあったでしょうか。
無題トプカプ地図

宮殿の正門「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン宮殿の正門は、アヤソフィアの側にある
この門から観光が始まります。
214 -入り口1 
門を潜ると、最初に左側にこの立派な教会が見えてきた。1128 - 教会
世界のキリスト教徒の教会の中で最古の建物の一つで、現在は博物館として美術展覧会や音楽会等に使われている。

1211 - 教会1

トプカプ宮殿の外の中庭にある元の東方正教会の教会。

"Hagia Irene"(アヤアイリーン)です。

宮殿

海上から見たトプカプ宮殿

文化遺産 登録1985

昼食後、最初に見学したのは、トプカプ宮殿です。

「トプカプ」とは、「大砲の門」を意味するそうです。1130 - 挨拶1
並木道の奥に城壁と門が見えてきました。

オスマン帝国の宮殿として、1856年にドルマハブチェ宮殿に移転するまで使われました。その後、トルコ共和国になってからは、博物館になっています。

 

外廷の正門「挨拶の門」は(バービュッセラーム外壁内の宮殿敷地の内側にはある、第二の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間が、君主の私邸であるトプカプ宮殿の本体部分である。1131 - 挨拶2 (2)
こちらが「挨拶の門」です。2本の門塔が特徴的です。現在ではこの門がトプカプ宮殿博物館の入り口となっています。048 - トプカプ

このチケットで入りました。1133 - トプカプ2
第二の庭園で出会ったトルコの学生さんたちがポーズしてくれました。1136 -幸福の門
「第二の庭」の正面奥には「幸福の門」(バービュッサーデ)とよばれる門があり、幸福の門(謁見の間前の建物)225 -謁見の間4
1138 - ハーレム3
その奥にある「謁見の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建造物には、現在は有名な「トプカプの短剣」が展示されている宝物庫がある。1143謁見の間6
謁見の間の玄関のすり減った大理石

1453年にこの地を征服したメフメト二世が建てた宮殿です。

 
1137 -謁見の間 (2)
スルタン謁見図
11140 - ハーレム
謁見の間は、外国の大使や政府の高官などを謁見した場所。式典の祭には幸福の門の前に玉座が置かれたそうである。 無題宮殿配置図2

これから禁断のハーレム観光です。皆全員が集合するのを待っています。誰なのだ遅いのは?


謎に包まれた組織の実態を、、、ハーレムにおけるスルタン妃や側室や女官や宦官の演じた政治的役割を、、、、早く見てみたい!!!逸る気持ちを。。。!!!

227 - 集合

想像するだけでも胸躍ります。ハーレムは別途チケットが必要なのです、こちらがそのチケットです。

これで入ります。
016.jpg

ハーレムとは「禁じられた」という意味のアラビア語から。トプカピ宮殿の一角には400以上の部屋がつくられ、最盛期の住人は2000人を超えたとか。ハーレムの生みの親で、スレイマン1世の愛妾であったロクサレーナも元はロシア人奴隷。ライバルを蹴落としてスルタンの母親に上り詰めた彼女は数少ない成功者の一人でした。1無題宮殿配置図

【歴代君主オスマン朝の7代目です】

7.メフメト2世(1451 - 1481年)

京都御所においても「禁裏」という言葉がありましたね。その意味するところは、同じなのか、とても不思議ですね。

次回は「ハーレム」に迫りますので、ご期待ください?!?!?!

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