スポンサーサイト

-------- -- : スポンサー広告 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

昔から現在へ 知っておきたい建築様式のススメ【3:4】

2010-04-08 Thu : 建築様式 

ルクソール神殿  ルクソールはカルナック神殿の南西3キロほどの位置にある神殿です。元々はカルナック神殿の中心である形成するアメン神殿の付属神殿として建設されました。アメン神殿とは建設当初、スフィンクスの並ぶ参道で結ばれていたほか、神殿入口にはラムセス2世の坐像と、その手前にオベリスクが1本立っているのが特徴です。オベリスクは建設当初は左右に1本ずつありましたが、向かって右側の1本はフランスに運ばれてしまい、現在エジプトで確認することはできません。
 この周辺の地名にもなっているルクソールですが、古代ではワセト(ギリシャ語でテーベ)と呼ばれ、エジプトの首都として栄えていました。ルクソールの語源はエルウクスール(城塞)というところからきていて、昔この当たりには城塞のある軍事的要衝となっていたことが連想されます。

古代エジプトのパイロン

古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。 この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿エドフ神殿でそれらを確認する事ができる。

また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用される事ともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。 これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものといわれている。

 

ルクソール神殿
1対あったオベリスクのうち1本はパリのコンコルド広場に建っている。

 1805年、トルコのスルタンによりエジプト総督に任命されたムハンマド・アリは、マムルーク族を虐殺、排除し、エジプトの近代化を推し進めようとしていた。フランス人、イギリス人、ドイツ人や自称技術者たちがアリに群がっていた。アリはエジプトの近代化と産業振興のため、ヨーロッパからの機械や技術を導入する必要があった。しかし、その代償としてヨーロッパ人に遺跡の発掘権と持ち出しを認めざるを得なかった。後進国エジプトの悲しい現実があった。 その後、オスマン・トルコからの支配から脱しようとしたが、1854年のスエズ運河の建設にからんで、イギリスに支配権をにぎられてしまい、以降、植民地状態が続くことになる。(「古代エジプト探検史」創元社より) エジプトが独立を果たすのは、1954年ナセルの共和国宣言によってである。1本しかないオベリスクがエジプト遺跡の現実を物語っているようだ。もう1本は、オポレオンがムハンマド・アリに当時としては珍しい大時計をプレゼントしたが、イスラム教徒として義理堅いアリはそのお礼としてナポレオンに差し上げたもの。アリはほとんど冗談で、持っていっていいよといったのに、ナポレオンは軍隊を動員して本当に持ち出してしまったのだという

 

ルクソール神殿平面図

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

33エジプト 

 

2体の座像が並んでいるが、どちらもラムセス2世の像。台座に上下エジプト統一の象徴や外国人兵士のレリーフがある。その両脇に立つ2体の立像(現在残るのは手前のみ)も、ラムセス2世。王が自分の像を何体も並べて置くのは、当時としては一般的。

 ラムセス2世像

  太陽の王ラムセス〈3〉カデシュの戦い (角川文庫)

 紀元前1275年頃、エジプトとヒッタイトの間で行われた戦いのレリーフがある。指揮官のラムセス2世が、自ら敵陣の中に飛び込んで敵兵をけちらしたという伝説があるが、実際は決着がつかないまま終わったらしい。古代戦史に名高い「カデシュの戦い」は、世界で初めて公式な軍事記録が残された戦闘であり、またその戦後処理に当たって成文化された平和条約が取り交わされたという点でも、世界初となるできごとであった。

スポンサーサイト

トラックバック

http://47hirome.blog129.fc2.com/tb.php/44-ef531ada

コメントの投稿

Secret

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。