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昔から現在へ 知っておきたい建築様式のススメ【4.8】

2010-05-01 Sat : 建築様式 
エーゲ海クルーズ3            ギリシヤ建築 その7


  体育場(gymnasion)  

  記念建築(ヘレニスティック期)←リュシクラテス記念堂=競技        に優勝した合唱隊指揮者

  体育場(gymnasion)  

剣闘士養成所  
 
上記の画像の建築物は大劇場の南側に位置し、元々は青少年の体育の為の公共施設であったが、後に剣闘士養成所となり、鍛錬場であった中庭を囲む部分が剣闘士の宿舎となっていた。剣闘士達は普段、この剣闘士養成所において厳しい訓練を受けていた。こうした養成所では軍隊式の序列が持ち込まれる一方、養成所付きの勤務医(medicus)によって十分な健康管理が行われていた。勤務医の存在は、剣闘士達にとって如何なる意義を持ちえていたのであろうか?一つには剣闘士を貴重な商品と考える興行主による冷徹な算盤勘定によるものであろう。つまり、屈強な奴隷を剣闘士として購入し、十分に目の肥えた観客の要望に応え得るような闘技を繰り広げる為の訓練には非常に費用と時間を要する。そうした剣闘士達が、闘技に出場する前に健康を害したり訓練中に死なれるのは興行主にとって最も恐れるべきことであった筈である。

語源
ギリシャ語の「γυμνάσιον[ギュムナスィオン]」は「体育場」のことで、「はだか」って意味の「γυμνός[gymnós ギュムノス]」からうまれたことば。はだかになってからだをきたえたから、こういう名まえがついたのです。「体育場」から「体育学校」ってことになって、さらに「学校」って意味にもなった。ギムナジオンという施設の名前は、「裸で体操をする」という意味の"gymnázesthai"から由来したという。その名残として「ギュムナズィウム」とも呼ばれる。

ドイツ語では、体育という言葉も同じ由来のGymnastikを今も使っている。日本のボクシングレスリングなどの練習場を指す「ジム」も、同じ由来である。 

現代ギリシャ語の「γυμνάσιο[イ゙ムナースィオ]」は「中学校」のことで、「体育館」のほうは「γυμναστήριο[イ゙ムナスティーリオ]」っていってる。


リュシクラテス記念堂
=競技に優勝した合唱隊指揮者  
ヘロド・アティクス音楽堂の概要
右側の円筒状の建物がリュシクラテスの記念碑。左手背後にアクロポリスが見えている。  
 
 
2世紀にアテネの執政官ヘロド・アティクスが亡き妻を偲んで建造したもの
アテネのアクロポリスの東南東、ハドリアヌスの門の方にある記念碑。リュシクラテスが合唱団競技に優勝したとアーキトレーブ(柱上の大梁)に記されている。屋根頂部にはトロフィーが据えられている。
コリント式建造物としては現存する最古のもの。外周に見える6本のコリント式付柱柱頭はまだ成熟していない。
台座の高さ4m。その上の円筒部の高さ6.5m、直径2.8m。

話はちょっと飛びますが
現在のギリシャ危機も
他人事ではないのです
 近代ギリシアの独立に情熱を燃やした、英詩人バイロンも、リューシクラテースの記念碑の近くに住んでいたことがあるそうです。
アクロポリスの東麓、リューシクラテースの合唱団優勝記念碑 バイロン卿はギリシャ独立運動に参加し、死去。ギリシャ独立の父と呼ばれる。今日でも甘美な潤いを与える詩集本、書籍を残す。
       ギリシャでのバイロン像

バイロンは1788年1月22日 ロンドンに誕生。10歳の時に第6代バイロン卿となる。
バイロンは生まれながらの「びっこ」であったが、美貌の持ち主でもあった。

左下の写真はギリシャ国メソロンギ市のバイロン像

イタリア・バイロン
右上の写真は1959年4月21日にイタリアが発行した切手です、デンマーク人彫刻家トーヴァルセンによるバイロン像(ローマにあり)

ギリシャ独立戦争

スイスで詩人シェリーに歓迎されイタリアへ渡ったバイロンは、{異母姉であり、人妻でもあったオーガスタ(Augusta Leigh) との密やかな恋ため}追放された絶望的な生活の中で、ようやく新たな情熱が生まれてくる。それは若き日に訪れたギリシャがトルコからの独立を目指していることを知り、これを助けるためにと自らの資金を投げ出して義勇軍を募った。1823年にギリシャのミソロンギに上陸した。  1824年 ギリシャ独立を応援する戦いの中で、バイロンは熱病に冒されてしまう。そして、4月19日に父ジョンと同じ36年の生涯を閉じた。ギリシャ独立の恩人として、その名をとどめている。そして、バイロンの遺体はラム酒に漬けられロンドンへと帰った。

アテネ人の墓の下を渦巻く波を
打ち砕く風のそよぎさえない,
その墓石は絶壁の上で光り
家路に向かう小舟を最初に迎える,
彼が救ったが無駄だった国を見下ろしながら。
このような英雄はいつになったら再び生まれるのか


「ヨーロッパ文明の源であるギリシャをオスマン帝国の圧政から救え!」とのバイロンの訴えは、当時のヨーロッパ社会に大きなインパクトをもたらし、多くの文化人たちがギリシャの独立運動を支援していました

  

1824. Oil on canvas. Louvre, Paris, France
ドラクロワの絵で、「キオス島の虐殺」である。
『キオス島の虐殺』とは、1820年に始まったトルコ軍のギリシャ侵攻を描いたものである。

15世紀以来、ギリシャは、トルコの圧制下にあった。そして、19世紀の初め、ギリシャ人の解放運動が始まったのである。

1821年、ギリシャ中で、暴動が起こった。

対するトルコ政府は、ギリシャ人を制圧するため、大虐殺を始めた。

キオス島では、9,8000人のギリシャ人が、殺され、あるいは、奴隷として売られた。残った住民は、2,000人であった。

抵抗したギリシャ島民は、今は力尽き果て、虚しく横たわる。トルコ軍は猛り狂い、女を連れ去ろうと、馬上に乗せている。
 
さて、現在問題になっているギリシャの経済危機ですが、問題の根はなかなか深いものがあります。2008年のリーマンショック以降の金融危機で税収が減少し、財政状況が悪化。さらに、昨年(2009年)10月の政権交代後、前政権が財政赤字を過少計上していたことが明らかになり、国内総生産(GDP)比5%超とされていた2009年の赤字は12.7%にまで膨れ上がり、統計データへの信頼失墜から、債務返済能力も疑われ、ギリシャ国債の格付けが引き下げられ、経済危機が深刻化したのです、ユーロ圏内のポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインの各国は“PIIGS”として財政破綻予備軍とされており、ここでギリシャを救わなければドミノ現象が起こってユーロ圏全体が危機的な状況に陥ることも想定されています。
その意味では、「ギリシャを救え」とのバイロンの言葉は他人事ではないのでしょうね。
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