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昔から現在へ 知っておきたい建築様式のススメ【6.2】

2010-05-27 Thu : 建築様式 
アヤ・ソフィア博物館アジアとヨーロッパを結ぶ吊橋であるファーティフ・スルタン・メフメト橋 (Fatih Sultan Mehmet Bridge) 
イスタンブールの残るローマ時代の遺跡
イスタンブールには東ローマ帝国時代の遺跡がそこかしこに残っているその1つにヒッポドロムス跡(大競技場跡)がある。今は公園ですが、かつてはここで、徒競走・競馬・模擬戦・武芸競技、そして市民に最も人気があった戦車競技が行われた。
画像 
ヒッポドロムス跡(大競技場跡)
御者は、自分の団体の色のヘルメットをかぶって馬を走らせる。スタンドを埋めた観衆は、それぞれ自分のひいきする党を応援し、勝負をめぐって選手・ファンがいりみだれての乱闘を、しばしば繰り広げた。

 かつてコンスタンティノープル競馬場にあった4頭の馬の像。現在はヴェネツィアにある。  
   
ヴァレンス水道橋          テオドシスの城壁 

カーリエ博物館 【左上】     
最高傑作と評価されるモザイクフレスコ画が残されている
地下貯水場【右上】 
 現存する東ローマ帝国の貯水池としては最大のものである。現在は一般にも公開され、イスタンブール歴史地域として世界遺産にも登録されている。
                             
この貯水池は、ジェームズ・ボンドの映画『007 ロシアより愛をこめて』の撮影場所として使われ ました。
ロシアより愛をこめて007 ロシアより愛をこめてFrom Russia With Love(1963) 
 
 
ボンドに夢中になったソ連職員タチアナが、暗号解読器「スペクター」を手土産に亡命を望んでいるという連絡が入り、ボンドはイスタンブールへ派遣された。首尾よくタチアナと解読器を確保したボンドは、夫婦を装いオリエント急行に乗り込んで国外脱出を図るが、そこにはスメルシュの放った刺客グラントが待っていた。
45年前に英語好きな私はこのテーマ音楽の歌詞をソノシートがすりきるまで覚えました。今も英語で唄えるのが不思議なくらいです。あの当時ビートルズに嵌っていた三つ網姿の自分が瞼に浮かびます。ああーあの頃にタイムスリップしたいですね。青春よ戻ってきてーー!!!
                             

ローマ帝国の制度や伝統を受け継ぐ一方、ギリシアの文化を保持していました。
その結果、古代ギリシアの古典作品が数多く西ヨーロッパに伝えられ、ルネサンスを開花させる要因にもなった。
ビザンチン建築 【その2】
ユスティニアヌス大帝による
聖堂建設
ハギア・ソフィア大聖堂
【聖ソフィア大聖堂
聖ソフィア寺院】

アヤソフィア

 
アヤソフィア(ギリシャ語 : Αγια Σοφια, トルコ語 : Ayasofya)は、トルコのイスタンブルにあるビザンティン建築の代表的遺構である。同名の建築物は、ギリシャやトルコなどかつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアをさすことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシャ語で聖なる英知を意味し、その中世ギリシャ語の発音アヤ・ソフィアがトルコ語名アヤソフィアの由来である。
 
アヤソフィア内部北面
アーケードとティンパヌム                
  ティンパヌムのモザイク画  
 

「キリストと皇帝」のモザイク画   半ドームにある
聖母子のモザイク画

ユスティニアヌス大帝【ユスティニアヌス1世】
は、ビザンツ帝国史の中でも特に名を残す皇帝でした。 <ユスティニアヌス大帝が残した主な業績>の中の一つに「ローマ法大全」があります、ユスティニアヌス大帝の勅令によって編纂されたローマ法の集大成。「勅法集」「学説集」「法学提要」「新勅法集」からなります。「ローマ法大全」は、11世紀後半からヨーロッパで研究され始め、後にヨーロッパ各国の法律のもととなりました。明治の日本は、そのヨーロッパの法律をもとに、近代日本の法律を作っています。つまり、ローマ法大全は、今の日本の法律にも影響を与えているのです
テオドラニカの乱テオドラが行ったこと 
テオドラ皇后のエピソードユスティニアヌスの妃・テオドラもたいへん注目すべき人でした。彼女は子供のころから踊り子として働いていました。そしてその美しさが、ユスティニアヌスに見そめられたのです。当時、ユスティニアヌスは、皇帝であった叔父の補佐役として高い地位にありました。当時の法律では、身分の高いものと低いものが結婚することは禁じられていました。
しかし、ユスティニアヌスは、反対する周囲を押し切り、法律まで変えてテオドラと結婚したのです。【もしかして彼女の入れ知恵かも】
テオドラは、後に皇帝となったユスティニアヌスの相談相手となり、弱気な夫を励ましました。テオドラ自身も女帝として人々から愛されたと言います。特に有名なのは、532年、馬車競技場から起こった、首都市民による「ニカの乱」の際の、テオドラの毅然とした態度です。同時代に書かれた『戦史』によれば、反乱にうろたえて逃亡しようとするユスティニアヌスをテオドラは、次のようにいさめたそうです。
テオドラの言葉・・・
「たとえ命ながらえることができたとしても、今は逃げるべきではありません。この世に生まれ落ちたものは、いつか必ず死を迎えます。皇帝たる者、逃亡者になることなど決してあってはならないのです。・・・陛下、生き延びることだけをお望みでしたら、何も難しいことはありません。お金は十分ありますし、目の前は海、船も用意されています。しかし、よくお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったと思えるものでしょうか。私自身は、『帝位は最高の死装束である』という古の言葉に深い共感を抱いております。」
これによって勇気を取り戻したユスティニアヌスは、3万人もの犠牲者を出しながらも、反乱の武力鎮圧に成功したのだと伝えられています。テオドラの毅然とした態度がユスティニアヌスの運命を変えたのです。テオドラの言葉で側近たちも、一致団結して反乱を抑えました。この他にもテオドラは、弱者に対して優しい女性で、孤児院や病院に寄付を行なったり、売春婦たちの福祉や厚生に尽力しました。テオドラ自身、若いころ、売春婦でもあったとも伝えられています 

中世を通して、東地中海の強力な覇権国家であり続けた ビザンティン帝国が1000年も続いたのはなぜでしようか?初期は軍事力のための軍隊を維持し続け、その後地中海での商業活動による経済外交、バシレイオス2世ほど強力な皇帝の出現と他国人を受け入れるという懐の深さが国を長く存続させたのでしょうか?
         
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